徳川家康は天ぷらで死んだ!?日本料理『天ぷら』


代表的な日本食の一つとして知られている天ぷらは、寿司と並んで海外でも大人気の日本料理で、古くから日本人に愛されている食事です。季節の野菜や魚介を使った揚げたての天ぷらは、口に含むとサクサクと衣が音を立て、熱々の具の旨味がジュワッと口いっぱいに広がります。日本の歴史に登場するあの偉人も食べていた、天ぷらについて紹介します。

 

天ぷらの名前の由来は?

天ぷらの名前の由来については諸説あります。ポルトガル語で「味をつける」「固める」という意味の動詞「temperar」の三人称単数形である「tempera」から来たという説やスペイン語の「天上の日」を意味する「templo」から来たという説があります。また、漢字で「天麩羅」と書いて「あぶら(油)」と読んでいた物が後になって「てんぷら」と読むようになったという説もありますが、はっきりとした語源はわかっていません。

 

天ぷらの発祥

日本食の代表とされている天ぷらですが、そのスタートは海外の料理といわれています。一応それより前に素材に衣を付けて揚げるという天ぷらの基本となる調理法が、精進料理の調理法として使われていたとされていますが、16世紀から17世紀にかけて、ポルトガルからフリッターが伝わったことで、現在の天ぷらの形が生まれたといわれています。当時は海外との交易がほとんど行われていなかったため、数少ない海外の技術が伝わる長崎でフリッターの調理法を取り入れた長崎天ぷらが誕生しています。当時の天ぷらは衣に砂糖や塩、酒を加えてラードを使って揚げたもので、これが北上しながら伝わるうちに、ラードではなくごま油を使って揚げるようになりました。

 

庶民の味として浸透

長崎で作られた天ぷらは当時の日本ではほとんど使われず、日持ちもしないラードが使われていましたが、より手に入れやすいごま油を使うようになってからは、序所に庶民の味として浸透するようになっていきました。江戸時代に作られていた天ぷらは、庶民の味として食べられるファストフードのようなもので、屋台で野菜などを揚げて出した天ぷらが人気の味として広がっていきました。特に江戸時代は油の生産量が大きく増加していた時期で、多くの人が江戸に集まるようになったことでさらに広く天ぷらが広がったことで、日本を代表する食として日本に浸透するようになりました。

江戸時代の天ぷら屋台

江戸時代の天ぷら屋台

 

高級料理への移行

庶民の味として食べられていた天ぷらですが、江戸時代から明治時代に移るにつれて、徐々に料亭や天ぷら専門店といったお店で天ぷらが出されるようになっていき、庶民の味から高級料理へと移り変わるようになっていきました。江戸時代には火事の防止のため、屋内の天ぷら調理は禁じられていたそうですが、このころには江戸幕府の力も弱まっており、無視されることも多かったようです。屋内調理がメジャーなものになってからは、高級食材を使うなどの差別化により、天ぷら自体がより上品かつ高級な料理になるように改められていきますが、同時に大衆向けの天ぷら屋も営業するようになっており、子どものおやつや軽食として食べられるなど、子どもから大人まで楽しむことが出来る日本人の味として定着し続けました。

 

関東大震災と天ぷらの普及

現在食べられる形式の天ぷらは、主に東京で食べられていましたが、他の地域にはそれほど普及していませんでした。この天ぷらが全国に普及するのは大正時代の話で、関東大震災によって東京が被災し、都市部が壊滅状態になったことで、東京で働いていた天ぷら職人が職を求めて地方に移り住み、各地方で江戸風の天ぷらを広めたことで、現在の天ぷらが全国で食べられるようになりました。その後も地方ごとに塩を使って食べたり、その地方の名産を使ったりと、独自の食べ方も研究されるようになり、現在のようなバラエティ豊かな天ぷらが作られることとなりました。

 

現在の天ぷら

現在食べられている天ぷらは、昔ながらのごま油を使ったり、菜種油を使ったりと、使う油にも多様性が見えるようになっています。お店によっては独自のブレンドを施した油を使っており、仕上がりや味に大きな差が出るようです。使う具材はえびやいか、白身魚にアナゴといった海鮮や、レンコン、山菜、ナス、サツマイモなどの野菜を使うことが多く、こちらも季節によって出すものを変えたり、地元の名産品を使ったりといった個性が出てきます。衣は基本的には小麦粉に卵や水を溶いて作りますが、それぞれの割合を細かく調整することで食感などが大きく変わるなど、様々な違いを出すことが出来ます。

 

徳川家康は天ぷらの食中毒で亡くなった?

江戸幕府を開いた将軍・徳川家康は天ぷらを食べた事により死んでしまったという話は非常に有名です。しかし、現在ではその説は根拠に乏しく天ぷらが直接的な死因ではないと考えられています。『徳川実紀』によると家康は1月21日の夕食に、タイを油で揚げてニラをかけた天ぷらを食べたと記されています。しかし、家康が亡くなったのは4月17日です。食中毒にしては時間がかかりすぎているため、現在では胃がんが原因ではなかったかと推測されています。体調を崩してしまった理由には、家康が75歳と当時にしては随分長生きで高齢だったことに加え、庶民の間では食されていた揚げ物も上級武士では口にする機会が少なく、体が受け付けなかったのではないかと見られています。家康の死後、江戸城内で天ぷらを揚げる事が禁止されてしまいましたが、この事件が原因と言うより火災を防ぐ事が目的だったとされています。

 

天ぷらは長い歴史を重ねる中で、海外の料理から日本の料理へと進化を遂げ、世界的にも知られるようになった料理です。長い時間をかけて国民食となった天ぷらの味を、ぜひ揚げたてを熱々の状態で楽しみましょう。

(noren Ichiro)

ざっくり歴史人物シリーズ!『徳川家康』


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