ざっくり歴史人物シリーズ!『篤姫(天璋院)』


テレビドラマや映画などで描かれる大奥のきらびやかな世界。そこには将軍の正室であり、大奥一の立場であった御台所を筆頭に様々な女性達が仕えていました。大奥に生きた女性の中でも、小説の主人公として書かれ、後に大河ドラマにもなった篤姫(あつひめ)は有名です。目まぐるしく移り変わる幕末の時代を生きた女性、篤姫について紹介します。

 

薩摩から江戸へ嫁ぐまで

篤姫は江戸時代後期にあたる天保6年(1836年)、薩摩藩(現在の鹿児島県)島津家の一門であった今和泉の領主・島津忠剛の娘・島津一子として生まれました。一子は幼い頃から学問を学び、頭が良かったと言われています。

当時江戸では将軍家の跡継ぎ問題が取りざたされており、病弱な13代将軍・徳川家定の跡を誰が継ぐかで揉めていました。候補となったのは一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)と紀州慶福(14代将軍・徳川家茂)の2人です。それぞれ一橋派と紀州派という派閥に別れ、薩摩藩の藩主であった島津斉彬(しまづなりあきら)は一橋派に属していました。家定はこれまで正室を2人迎えましたがどちらも若くして亡くなっており、次に迎える正室は健康な女性が良いという話が持ち上がります。そんな中、白羽の矢が立ったのが島津家でした。島津斉彬はこのチャンスに乗って正室を送ることで、一橋慶喜を次期将軍に推すのに有利になるのではないかと画策します。そこで頭が良く健康であった忠剛の娘・一子を養女として迎えました。一子は名前を篤子と改め、3ヶ月間ほど鹿児島城で過ごすと江戸へ出発しました。

徳川家定(いえさだ)

徳川家定(いえさだ)

 

江戸で嫁入りまで2年も待たされた篤姫

篤子が江戸に到着するとすぐに将軍家に入れるかと思いきや、幕府の中では外様大名であった島津家から正室を迎えることに抵抗する勢力が現われます。大奥の制度が確立して以降は将軍の正室は公家から迎えることが慣例となっていたため、島津斉彬(しまづ なりあきら)はじめ一橋派の人々は、篤子を公家である近衛家の養女にすることにします。この時に篤君と呼ばれるようになりました。公家の中でも最も格の高い近衛家からの嫁入りであれば周囲も強く反対できず、篤姫は江戸に来てからおよそ2年が経過した頃になってようやく嫁に行くことができたのです。

 

波乱の大奥人生

13代将軍・家定の正室となり、大奥に入った篤姫ですが彼女の人生の波乱は続きます。結婚から2年が経たないうちに家定が急死すると、その10後には島津斉彬も亡くなってしまいます。大奥では未亡人となった正室は出家するのが通例であり、篤姫もそれに則って髪をおろし、名を天璋院(てんしょういん)に改めます。この頃まだ篤姫は二十代前半でした。将軍跡継ぎ問題によって嫁に送られた篤姫でしたが、結局家定の跡を継いで14代将軍になったのは紀州慶福(徳川家茂)でした。家茂の正室には皇室出身の和宮が選ばれます。天璋院は家定の死後、薩摩に帰るよう勧められましたがそれを断り、残りの人生も徳川家に嫁いだ者として過ごします。明治維新により幕府が倒れた際にも帰郷を拒否し、天璋院は薩摩を出て以降一度も故郷の地を踏む事はありませんでした。

 

篤姫にまつわるエピソード

実は篤姫は大の犬好きであり、結婚前までは多数の犬を飼っていましたが、夫である家定が犬嫌いだったため大奥では猫を飼っていました。その猫にかかる費用は年間25両、3人もの世話係をつけていたそうです。また、篤姫は日本で初めてミシンを使った人物とも言われています。アメリカのペリーが黒船に乗って来航した際に献上され、圧姫はそのお礼にミシンメーカーに金糸や銀糸で織られた豪華な日本の織物を贈呈したそうです。

故郷である薩摩を捨て、徳川家の正室としての責任を全うした強さの一方で、篤姫には動物好きな可愛らしい一面も見ることができます。

(noren Taro)


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