
古文や歴史の授業で必ず習う平安時代の女流作家・紫式部。彼女の代表作である『源氏物語』は執筆から千年以上経った現在でも読まれ続け、なお人気を博しています。才能溢れた彼女の生涯と、意外な人物像に迫ります。
紫式部の生涯
『源氏物語』の作者として知られる紫式部が生きた時代は平安時代中期の頃でしたが、詳しい生年や何歳で亡くなったかなどの記録は残されていません。父親は越前守の藤原為時で、母親は幼少時に亡くなったと言われています。父・為時は歌や漢詩を詠むことに優れ、花山天皇の読書役として勤めていました。その父を持つ紫式部は、幼い頃より漢詩を読みこなすなど類稀な才能を発揮したそうです。紫式部は親子ほど年の差があった藤原宣孝と結婚し、女の子を出産しますが、その結婚生活は短く、3年ほどで宣孝と死別してしまいます。『源氏物語』を書き始めたのはこの頃からではないかと考えられています。そのことが評判を呼び、藤原道長の目に留まった紫式部は、道長の娘で一条天皇の妻になった彰子(しょうし/あきこ)の家庭教師として使えることになります。宮中では一条天皇や道長をはじめとした多くの人が紫式部の書く『源氏物語』の続きを心待ちにしていたようで、超大作の物語はおよそ10年に渡って執筆されました。紫式部は『源氏物語』の完成後、しばらくして宮中を去りますが、その後どのように暮らしたのかはわかっていません。
紫式部の人物像
紫式部は宮中では非常にシャイな性格で、人前で己の知識をひけらかすようなことはしなかったと言われています。紫式部という名前も正式な名前ではなく、「式部」とは父の為時が式部省の官僚だったことから取られたという説と、兄弟(紫式部が姉にあたるか妹にあたるかは不明)の惟規(のぶのり)の官位から取られたという説があります。そして「紫」という言葉は『源氏物語』に登場する「紫の上」が由来になっていると考えられています。紫式部が記したものは、『源氏物語』以外にも宮中で仕えていた頃の生活や彼女が思ったことを綴った『紫式部日記』があります。『紫式部日記』では『源氏物語』の世間での評価や、同じく宮中で仕えていた和泉式部やライバルと言われる清少納言についての率直な感情が書かれており、宮中での生活の様子などがより詳しくわかります。また、歌の才能もあったことから、『小倉百人一首』には
「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」
という歌が採用されています。この歌には、久しぶりに友と会えたものの、見たかどうかもわからないほどあっという間、まるで夜半の月が雲に隠れるようにあなたはすぐに帰ってしまった、というような、再会を喜ぶ反面すぐに別れてしまい心残りだという気持ちが表されています。
源氏物語とは?
紫式部の代表作でもある『源氏物語』はおよそ10年にわたる執筆期間の間に、全54帖、文字数にして約10万字(400字詰め原稿用紙換算で約2400枚)の量が書かれた超大作です。物語の主人公でもある光源氏は幼い頃に亡くした母・桐壷更衣(きりつぼのこうい)の面影を追い、父親の後妻であった藤壷の宮に思いを寄せ、結婚相手の葵の上をおろそかにしたり、行きずりの恋や駆け引きを楽しんだりと奔放に恋をする様子や、それが元となり都を追われる話などが描かれています。物語の中には500名にも及ぶ登場人物に、約800首の和歌も挿入されることで、重厚なこの物語が当時の人々にとって非常に身近で想像しやすい存在になったのではないかと考えられます。現代語訳版など様々なものが出版されているので、この機会に一度読んでみてはいかがでしょうか?
紫式部は意外に毒舌?
人前では非常にシャイで、その才能を見せ付けるようなことはしなかったと言われる紫式部ですが、実際にはその鋭い観察眼で同時期に有名であった宮中に仕える人々の様子を『紫式部日記』で詳しく書いています。中でも、平安時代の女流作家として紫式部と比べられることの多い清少納言については辛辣で、「得意そうに漢字を書いているけれど、間違いも多いし大したことないわ」といった批評をしていたり、同輩であった和泉式部については才能を認めつつも、素行の悪さについて言及したりとなかなか厳しいことを書き連ねています。『紫式部日記』では、女流作家として優れた才能を持った彼女の、意外に素直な面を見ることができるかもしれません。
(noren Taro)
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