
小説や映画などでもいまだ人気の高い幕末の剣豪、沖田総司。新撰組といえば沖田総司と答える人は多いでしょう。色白で絶世の美青年と謳われているが、残念ながら本物の写真は発見されておりません。ネットなどで出まわっているいる総司の肖像画も彼に似ている言われていた総司の姉みつの孫である要(かなめ)がモデルだそうです。そんな総司の人生は謎に包まれておりますが、剣を極め剣に生きていました。
※TOP画像は、今戸神社(浅草)境内の「沖田総司終焉之地」碑
沖田総司のプロフィール
沖田総司は白河藩藩主・沖田勝次郎の長男として江戸で生まれます。幼い頃に父の勝次郎が亡くなり、母・ミキとも死別した後は2人いた姉のひとり、みつによって育てられます。9歳になった頃、姉夫婦に長男ができたこともあり総司は近藤勇の養父であった近藤周助が指導していた天然理心流の道場・試衛館の内弟子となって家を出ました。ここで剣術の稽古に励み近藤勇や土方歳三らと共に天然理心流の看板を背負う事になります。20歳頃に浪士隊として京都へ上洛し、新撰組のメンバーとして京都の治安維持に努めます。しかし終盤は体調の悪化により第一線での活動から身を引きます。その後江戸に戻って療養するも結核で亡くなりました。生年がはっきりしないため、享年(きょうねん)は24歳・25歳・27歳の3の説が存在しています。
沖田総司の新撰組での活躍
沖田総司は新撰組の中で一番隊組長や剣撃師範として活動していました。剣豪が揃った新撰組の中でも特に一番隊は重要な任務を行っていたと言われています。総司が初めて暗殺任務をこなした記録は上洛して間もない文久3年(1863年)のことで、相手は殿内義雄でした。殿内が仲間を集めて自分の派閥を作ろうと動いていたことが気に入らなかった芹沢鴨や近藤勇が暗殺を企てます。総司は近藤勇と共に暗殺を実行し、実際に手をくだしたのは総司だと言われています。その後は芹沢鴨や大坂西町奉行所の与力であった内山彦次郎の暗殺などにも手を染めていきます。
長州藩や土佐藩などから集まってきた尊王攘夷(そんのうじょうい)派の志士たちを襲撃した池田屋事件では近藤勇・永倉新八・藤堂平助と共に屋敷に踏み込み奮闘するも、途中で喀血(かっけつ)したため戦線離脱したと言われています。しかし、総司が病気に倒れた時期には諸説ありはっきりしたことはわかっていません。
沖田総司の人物像
小説や創作物での沖田総司は色白で小柄な美青年という描かれ方をしたものが多くありますが、実際の総司の身長は5尺5寸~5尺7寸と言われ、167cm~172cm程度と推測されます。現在の日本人の基準で考えれば平均的な身長と言えますが、当時の男性から見れば長身にあたります。また、色が黒く猫背で、目の間隔が寄った「ヒラメ顔」で笑うと愛嬌のある顔をしていると言われています。性格は冗談を言って周囲を笑わせる陽気さがある一方で、剣術の稽古の際には荒っぽくてすぐに怒るといった厳しい面もありました。剣術の腕は新撰組最強とも言われ、土方歳三や井上源三郎、藤堂平助など腕に自信のある浪人たちが竹刀を持ってかかってきても、まるで子供をあしらうように軽くいなされたそうです。
沖田総司の愛刀について
沖田総司が使っていたと言われる刀に「菊一文字則宗」の名前が挙げられますが、これはフィクションだという見方が一般的です。則宗は鎌倉時代の刀工・則宗が製作したものですが、非常に貴重で現在残っている本数は少なく、国宝や重要文化財級の品物になります。実戦で切り合いをすれば刀身が痛んでしまいますし、幕末期は刀を手に入れるのも難しくなっていたため、総司がそれだけ高価なものを入手するのは現実的ではないと見られています。「菊一文字則宗」と呼ばれる刀自体も後にできた創作話で、そのような刀は実在していませんでした。
実際に総司の愛刀として使われていたものは「加州清光(かしゅうきよみつ)」と「大和守安定(やまとのかみ やすさだ)」と言われています。加州清光は池田屋事件で斬り込んだ際に激しい戦闘によって「帽子」と呼ばれる先端の部分が損傷し、修理に出されたと記録されています。しかし、その後どうなったのかはわかっていません。
沖田総司の墓
六本木ヒルズの近くにある小さなお寺「専称寺」にあります。
本堂の裏に墓地があり、通常は中に入れませんが、堀の外から拝むことが可能です。目印は赤い屋根、小さなお墓です。
○専称寺(東京都港区元麻布3−1−37)
(noren Taro)
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