
日本を代表する偉人の一人として、坂本龍馬の名前を挙げる人は多いでしょう。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』をはじめとした文学作品や大河ドラマの放送もあり若い人にも人気が出ました。しかし、坂本龍馬が何をした人か具体的に聞いても、はっきりと答えられる日本人は少ないかもしれません。龍馬の活躍やその人物像について紹介します。
坂本龍馬は一体何をした人なのか
坂本龍馬の功績は、一言で言えば「新しい体制の日本を作るきっかけを作った人」です。龍馬が生まれた江戸時代末期、日本は鎖国中のため貿易は限られた場所で限られた国とのみ行っていました。しかし、1853年アメリカのペリー率いる黒船の来航をきっかけに開国を迫られます。この頃既に江戸幕府には外国からの圧力に対抗する力や諸藩を統率する能力が無く弱体化していることは明らかでした。龍馬をはじめとした様々な人物が、日本が直面している危機を乗り越えるには江戸幕府を倒し、新しい体制の国を作るべきだという考えを持つようになります。
倒幕への勢いが高まる中、まず龍馬は幕府に対抗できる力を持つ勢力を味方につけます。その勢力が薩摩藩と長州藩でした。龍馬は犬猿の仲とも言われるほど仲が悪かった薩摩藩と長州藩の間に入って上手く仲裁し、『薩長同盟』を結ばせます。外国からの干渉が強いこの時期に、武力で江戸幕府を倒すことは日本を混乱させると考えた龍馬は力によるクーデターではなく、平和的な『大政奉還』という形で倒幕することを目指します。幕府はそれを受け入れたため、1867年に江戸幕府は形式上消滅し、政権が幕府から天皇へと奏上されました。
幼少期の坂本龍馬
坂本龍馬は土佐藩(現在の高知県)の下級武士の家の次男として生まれました。兄と、3人の姉がおり、非常に裕福な家庭に育ちます。12歳の時に龍馬の母・幸が亡くなった後は父親の後妻となった伊予によって育てられました。幼い頃はおねしょの癖が治らず、気弱でいじめられっ子で、漢学の勉強のために入った塾を辞めてしまいます。その後の武術や学問は三姉妹の一番下の姉・乙姫が見ていました。龍馬の後々の人格形成に影響を与えた物の1つに、伊予の前夫の実家である下田屋(川島家)の存在が挙げられます。龍馬は乙姫と共に頻繁に川島家を訪れ、そこで長崎や下関からの面白い話を聞いたり、世界地図や外国からの輸入品に触れたりすることで世界に憧れを抱いたと言われています。激動の幕末の世で、革新的なアイデアで新しい体制の下地を作った龍馬の原点とも言えます。
坂本龍馬、死す(近江屋事件)
坂本龍馬は1867年12月10日、33歳という若さで暗殺されます。龍馬は盟友であった中岡慎太郎と共にいるところを複数人の刺客に斬りつけられ、龍馬は即死に近い状況で死亡し、中岡は生き延びて助けを求めるますが襲撃の二日後に亡くなります。暗殺の現場となった京都市内の近江屋の跡地には石碑が建てられており、現在でも観光客の姿が見られます。坂本龍馬暗殺の実行犯が一体誰なのか、諸説あるものの今でもはっきりとはわかっていません。
日本初、新婚旅行は龍馬とおりょう
坂本龍馬に関する雑学の中で有名なものが、日本で初めて新婚旅行に行ったというエピソードです。1886年、龍馬は妻のおりょう(曽根崎龍)と共に鹿児島へ向かいます。実は龍馬はこの直前に京都の寺田屋で襲撃され負傷しており、西郷隆盛の斡旋によって温泉地で療養しながら潜伏するよう勧められての旅行でした。およそ3ヶ月間の鹿児島滞在でしたが、刺客から命を狙われ、常に危険と隣り合わせの日々を送っていた龍馬にとって、最愛のおりょうと過ごしたこの日々は、おそらく人生で一番安らぎを覚えた時期であろう。
龍馬が療養した主な温泉(鹿児島県)
・日当山温泉(ひなたやまおんせん)
・塩浸温泉(しおびたしおんせん)
・硫黄谷温泉(いおうだにおんせん)
・栄之尾温泉(えいのおおんせん)
あなたも、坂本龍馬を想いながら、温泉巡りをしてみては如何ですか?
(noren Taro)
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