ざっくり歴史人物シリーズ!!『真田幸村』


大河ドラマの主役としても取り上げられている真田幸村は、その勇敢さと忠誠心の高さから、戦国時代の中でも非常に人気のある武将です。しかし彼の人生は唯一の活躍の舞台となった大坂の陣までは目まぐるしく変わる情勢に翻弄された人生だったと言えます。

真田幸村(さなだゆきむら)

真田幸村(さなだゆきむら)

 

真田幸村の名前は実名ではなかった?

歴史小説やゲームのキャラクターとしてすっかり馴染みの名前となった真田幸村ですが、実は幸村という名前は本来の名前ではありません。後世になってから軍記物に記され広まったもので、幸村の実名は信繁(のぶしげ)と言いました。この名前は父の真田昌幸によって付けられ、武田信玄の弟である武田信繁から取られたと言われています。武田信繁は武田二十四将の副大将であり、兄の片腕として活躍した優れた武将でしたが川中島の戦いで命を落としてしまいます。その実力は兄である信玄や武田軍だけでなく、敵であった上杉謙信ですら彼の死を惜しむほどだったそうです。敵味方を問わず惜しまれるほどの素晴らしい力を持っていた武田信繁にあやかって昌幸は自分の息子に信繁と付けたようです。

 

幸村の辿った人生

幸村の父・昌幸は甲斐を治めていた武田信玄に仕えていました。しかし信玄の死後、息子の勝頼が織田信長に敗れると1582年に武田氏は滅亡してしまいます。その後は自立して織田信長に臣従する道を選びますが、本能寺の変によって信長が討たれてしまいます。昌幸は目まぐるしく変化する情勢をうまく立ち回り、どうにか一族を存続させようと奮闘しました。そして、当時力を持っていた上杉氏に帰属して次男の幸村を人質に送ります。その後昌幸は上杉氏から離れ、天下を取った豊臣秀吉の下に就きます。そこで再び秀吉の元に人質を送る必要が出てきたため、幸村が越後から大坂へと送られました。大坂で豊臣家の家臣の娘と結婚し、豊臣家との繋がりが深くなりますが、人質生活をしているうちに幸村は30歳を越えてしまいます。

 

関ヶ原の戦いの結果

豊臣秀吉の死後、石田光成率いる西軍と徳川家康率いる東軍に分かれて「関ヶ原の戦い(1600年)」が起こります。この時幸村は33歳になっていました。この戦いで父の昌幸は西軍へ、兄の信之は徳川家康の娘婿ということもあり東軍についています。幸村は昌幸と共に西軍側で参戦するも、西軍は敗北してしまいます。通常であれば昌幸も幸村も処刑になるところですが信之や本田忠勝の懇願により、紀州の九度山へ流されます。

 

大坂城(大阪城)と真田丸

天下を統一した家康ですが、どうにかして豊臣家を滅ぼそうと画策し、豊臣側を煽って挙兵を促します。その頃には全国で徳川の基盤ががっちりと固められており、豊臣側には頼れる大名などはおらず、戦力が圧倒的に不足していました。そこで関ヶ原の戦いで領地を失った浪人たちを集めて戦おうとします。それに答えて豊臣家に恩義のあった幸村は大坂城へと向かいます。既に父の昌幸は亡くなっていました。

これより「大坂冬の陣」が起こります。当初、援軍もなく人数も圧倒的に少ない豊臣側が勝つには籠城ではなく野戦を仕掛けて敵側の兵力を削ぐしかないと考えていた幸村ですが、トップからの許可が下りずに籠城戦で戦うことが決まります。大坂城は元々守りが非常に堅いつくりをしていたことからそのような判断になったようです。そこで幸村が取った作戦は、大坂城の中でも唯一の弱点と言われていた三の丸の南側に出城を築き、そこで防戦を行うというものでした。これが大河ドラマのタイトルにもなっている「真田丸」です。幸村は真田丸に鉄砲隊を配置し、敵軍を上手く挑発しながら徳川の軍勢を撃退しました。これに参った家康はどうにか和議を結んで一度立て直そうと戦法を変えます。夜中でも鉄砲を撃ち、周囲の人間を不眠にさせ、当時日本に来たばかりの外国製の大砲を打ち込みます。これに参った豊臣側は和議を結び、その際に大坂城の堀の一部を埋めるという条件を飲んでしまいました。当然家康は堀を全部埋めてしまい、真田丸もこの時に壊されてしまいます。こうして堀が無くなった大坂城は、続く「大坂夏の陣」で浪人達の必死の抵抗もむなしく、あっさりと攻め落とされてしまいます。真田隊も最後の力をふり絞りますが、軍を引いて安居神社で休んでいたところを討たれました。この時幸村は「我が首を手柄にせよ」と敵に告げ、討たせたと言われています。

真田幸村の像 (安居神社、大阪府大阪市)

真田幸村の像
(安居神社、大阪府大阪市)

 

真田の赤備えにこめられた意味

真田幸村を象徴する色が赤です。幸村は大坂夏の陣に挑む際、部隊で甲冑などの装備品を赤い色で揃え「真田の赤備え(あかぞなえ)」と呼ばれていました。当時赤い染料は非常に高級であり、目立っていたため赤備えは強い部隊の象徴としても見られていました。しかし幸村の部隊は浪人達の寄せ集めだったので、その部隊に赤い武具を与える事で士気を上げようとしたと考えられています。また、劣勢であった豊臣側への忠誠を誓った幸村の覚悟を表しているとも言われています。

赤備え

 

(noren Taro)

ざっくり歴史人物シリーズ!『豊臣秀吉』

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

言語

翻訳はみつかりませんでした

おすすめ記事

  1. 東京から一時間ほどで行くことができ、神社仏閣(じんじゃぶっかく)などの旧跡の他、山や海などの自然にも…
  2.  今や大人の趣味コレクションとして大人気の「こけし」。“こけ女”(こけし女子)ブームもあり、様々なこ…
  3. 北陸新幹線の開業によって東京から金沢まで最速2時間半ほどで行けるようになったことから、ますます観光地…
ページ上部へ戻る