ざっくり歴史人物シリーズ‼︎ 『高杉晋作』


激動の幕末を27歳という若さで駆け抜けた高杉晋作。彼の非凡な才能をいち早く見抜き、育て上げた師・吉田松陰との関係や波乱に満ちた彼の人生を紹介します。

 

高杉晋作の少年期

高杉晋作は江戸時代後期、長州藩士であった高杉小忠太の長男として生まれました。10歳の頃に当時流行していた天然痘(てんねんとう)にかかり命の危機に遭いますが一命を取りとめます。晋作は漢学塾で学んだ後に藩校であった明倫館に入学します。その後は久坂玄瑞らと共に吉田松陰が指導していた松下村塾で学びます。

久坂 玄瑞(くさか げんずい)

久坂 玄瑞(くさか げんずい)

 

高杉晋作と吉田松陰

吉田松陰は晋作の非凡さに早くから気付いていたと言われています。松陰はそれぞれの個性を見極めることに長けており、人を感化する才能を持っていました。時に厳しい言葉を投げて挑発することも、他の子を褒める事でその悔しさをバネに奮起させる事もあり、門下生となった晋作も玄瑞も松陰を師と仰ぎました。英才タイプで幼いころから勉学が良くできた玄瑞と比べ、晋作は学問の知識では及びません。しかし松陰は晋作に知識や記憶力ではない、先を見通す直観力や危機的な状況においても正確な判断が出来る力「」が備わっていることを感じ、将来を期待していたようです。

晋作は藩命で江戸へ遊学した際に、同じ時期に安政の大獄で捕らえられた松陰を見舞います。しかし帰還命令が出て戻ることになった晋作は、松陰にいずれ長州で会いましょうといった内容の書簡を送りますが、松陰は晋作が藩に戻る間に処刑されてしまいます。

 

激動の青年期

1860年11月に帰郷した晋作はその後結婚するも、翌年から海軍修練や東北遊学のため再び藩を離れ、1862年5月には藩命で長崎から中国へと渡ります。上海で晋作は清朝が欧米列国によって植民地化されている様子を目の当たりにして7月に帰国します。この中国留学は晋作に大きな影響を与えます。

晋作が中国へ渡っている間に長州藩では尊王攘夷論が高まります。尊王攘夷と言う言葉は「天皇を第一に尊ぶ」という意味の「尊王(そんのう)」と「外国人を排除する」と言う意味の「攘夷(じょうい)」という言葉が合わさったものです。当時日本は外国からの圧力により鎖国を解除し開国を求められていました。幕府側は開国へと傾いていきますが、吉田松陰ら多くの反幕府勢力を弾圧した安政の大獄以来、尊王攘夷運動が盛んになっていきます。晋作も木戸孝允らと共に運動に加わっていました。

攘夷運動は過激さを増し、やがて晋作は品川に建設中のイギリス公使館を焼き討ちします。この事件により晋作は長州藩で謹慎処分を受け、10年隠遁(いんとん)すると宣言しますが、1863年5月に起きた下関戦争では晋作は下関の防衛にあたっていました。下関戦争の発端は、長州藩が関門海峡を通過する外国船に向けて大砲を打ち込んだことに始まります。それに報復するため、半月後にはアメリカ軍とフランス軍が長州軍艦を砲撃し、壊滅的な打撃を与えました。その翌年になるとイギリス・アメリカに加えフランス・オランダの4カ国の連合艦隊で長州側の砲台を攻撃し、占拠してしまいます。この下関戦争の講和を任されたのが晋作でした。連合国側は多くの条件を要求し、そのほとんどを晋作は受け入れましたが、ひとつだけ受け入れなかった条約が「彦島の租借(そしゃく)」でした。以前列強によって植民地化された中国を見ていた晋作は「領土の租借」というものが植民地化だと見抜いていたためと言われています。この時晋作は突然古事記を暗誦しだして通訳をしていた伊藤博文や各国の代表を呆然とさせたと言われています。結局その条約は取り下げられ、日本の植民地化は免れたという逸話が残されています。

 

奇兵隊について

下関戦争敗北をきっかけに、高杉晋作らの発案によって組織された戦闘部隊が“奇兵隊”です。奇兵隊は奇抜な発想から身分制度にとらわれない武士階級と農民や町民が混合された構成になっており、斬新な組織をつくり長州藩の正規常備軍となります。また積極的に外国の文明を取り入れ、当時最新の兵器を導入した幕末最強の軍を作り上げます。これらは身分に因らない画期的な組織づくりで、晋作の大きな功績の一つです。

長州 奇兵隊

長州 奇兵隊

高杉晋作と幕府の戦い

目まぐるしく情勢が変わる中、幕府は長州を敵とみなして征伐の準備を着々と進めていました。晋作は保守派勢力を排斥して藩の実験を握ると本格的に幕府と戦う姿勢を取ります。第二次長州征伐では晋作自らが海軍総督として指揮を執り、幕府の艦隊に夜襲を仕掛けて退けます。敗戦濃厚となった幕府軍は14代将軍徳川家茂の死去に伴い逃走し、幕府の権威が失墜したことを露(あらわ)にしました。これが大きなきっかけとなり、大政奉還へとつながります。そして晋作は幕府軍との苛烈な戦いに勝利すると肺結核を患い療養しますが、1867年5月17日に27歳の生涯を終えました。

 

坂本龍馬に拳銃を贈った高杉晋作

晋作は中国に留学した際、上海で拳銃を購入しています。当時の最新モデルでスミス・アンド・ウエットソン社のモデル2アーミーという品でした。この拳銃は晋作から坂本龍馬へプレゼントされます。護身用としてこれを離さず持ち歩いていた龍馬は寺田屋事件で襲撃にあった際にこの拳銃で応戦して難を逃れました。しかし、逃げる途中で本体を捨ててしまったため、実物は残されていません。

Smith&Wesson_Army2

Smith&Wesson_Army2

 

晋作が眠る東行庵(とうぎょうあん)

高杉晋作(号 東行)の墓所があるのが東行庵です。結核で亡くなった高杉晋作は、遺言で奇兵隊の本拠地であるこの場所に葬って欲しいと言い残しており、その遺言に従って東行庵の地に埋葬されており、境内には東行記念館もあります。

東行庵

東行庵山口県下関市吉田町1184)

 

ざっくり歴史人物シリーズ! 『吉田松陰』先生!?


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