
百人一首(小倉山荘色紙和歌)の謎
漫画「ちはやふる」の人気から、若い世代にも百人一首のブームがおこっています。百人一首は約千年前に当時の歌壇の大御所、藤原定家(ふじわらさだいえ/ていか)が選出した名歌集といわれています。飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、およそ六百年間に詠まれた百人の歌がほぼ年代順に並んでいます。しかし、この百人一首には不思議なことがあります。歌や歌人の選びかたがどうも変だと昔から言われてきたのです。たしかに百人一首は名歌、秀歌の集まりですが、中にはなぜこんな歌が選ばれたのか?と首をかしげたくなる歌や、同じ作者の歌ならもっと良い歌があるのに、どうしてわざわざこの歌を選んだのか?と疑問を持たれるケースがありました。
このような、百人一首に関する謎、
〇駄歌、凡歌が入っている
〇似たような語句の歌が多い
〇有名な歌人が入っておらず、無名の歌人が入っている
・・・これらの疑問に最初に取り組んだ本が、織田正吉著の『絢爛たる暗号:百人一首の謎を解く』です。(昭和53年出版)
百人一首とは、定家が息子である為家の妻の父親である宇都宮蓮生に《広間の襖に貼るための和歌の色紙を書いて欲しい》と頼まれ、応じたものです。しかし、織田正吉氏の説によると、「百人一首とは、歌を用いた一種の秘密の暗号、クロスワードではないか。百首で用いられた語句によって、すべての歌が縦横に連鎖する構造を持ち、それは承久の乱(1221年)に敗れ、隠岐の島に流された後鳥羽院鎮魂のための撰歌(せんか)である。」というものです。驚くような大胆で面白い仮説で、その後類似書も数々出版されました。
※撰歌:すぐれた歌を選び出すこと
百人一首の駄歌は、、
批判の多い歌の例として、真っ先に思い浮かぶのは文屋康秀(ふんやのやすひで)のこの歌でしょうか。
第22首「吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐と言ふらん」
(訳:山風が荒々しく吹きおろすと、たちまち秋の草木がしおれてしまう。なるほど荒々しいからそれで「あらし」、また山から吹く風なので文字通り「嵐」というのだろうか。)
この歌はただの言葉遊びなのですが、覚えやすく妙に人気があります。重苦しい歌の多い中では、箸休めのような気安さがあるのでしょう。織田氏の説によれば、この「風」「嵐」というキーワードがパズルに必要だったのではないかとの事です。
百人一首とは、実は護符(お守り)?
百人一首に異様に多い風の歌は、隠岐から京都に向かって吹く後鳥羽院の呪詛(じゅそ)を意味すると考えられます。又、海、船出、濡れる、月など孤島 配流(はいる)を思わせる言葉が多いのも、注目すべき点です。
※呪詛(じゅそ):呪うこと
※配流(はいる):島流し、追放刑
定家は後鳥羽院の命により『新古今和歌集』の撰出にかかわる。しかし歌をめぐる確執から後鳥羽院と対立し、職業歌人としての生命を断たれるに至る。二人の運命の明暗を分けたのは、その直後に起きた承久の乱(じょうきゅうのらん)であった。鎌倉幕府との戦闘に敗れた後鳥羽院は隠岐(おき)へ流され、一方定家は職業歌人としては破格の地位の昇進をする。悲運の運命をたどった後鳥羽院を見捨て、親幕派となり出世をとげた定家は、隠岐の島の後鳥羽院の怨念に怯え、身を守る護符(ごふ)を必要としたのではないか。その護符こそが、百の歌で構成される、クロスワードパズルとしての百人一首である。
※護符(ごふ):神仏の加護のこもっているという札。お守り。 |
なぜこの歌人の、この歌を?
百人一首の不思議のひとつ、同じ歌人の歌の中でも評判の高いものを選んでいないケースがしばしばあります。この疑問も、このクロスワード説を知ると納得できるかも知れません。
例えば、歌人として人気の高い西行法師。西行ファンなら、美しい歌の数々の中からなぜこの歌を?と誰でも首をかしげます。
第86首「なげけとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな」
(訳:月が私を悲しませようとでもしているのか、いやそんなはずはないのだが、そうとでも思いたくなるほど、月にかこつけるようにして涙が流れてしまうのだ。)
西行の代表作の一部としては下記の歌でしょうか。
「吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき」
「道の辺に清水ながるる柳蔭しばしとてこそ立ちとまりつれ」
「心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮」
定家自身の歌においても、評価の高い有名な歌が取られていません。
第97首「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くやもしほの身もこがれつつ」
(訳:待っても来ない人を待つ私は、松帆の浦の浜辺で焼いている藻塩の煙がなびいているが、この身も恋の思いにこがれていく、そんな気持ちなのだ。)
藤原定家の代表作
「春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空」
「大空は梅のにほひにかすみつつ曇りもはてぬ春の夜の月」
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮」
後鳥羽院においてもやはり、有名な歌が取られていません。
第99首「人もをし人も恨めしあぢきなく 世を思ふゆゑに物思ふ身は」
(訳:ある時は人々を愛しく思い、またある時は恨めしいとも思う。この世はどうにかならないものだろうが、それゆえに物思いをする私であるよ。)
後鳥羽院の代表作
「ほのぼのと春こそ空にきにけらし天のかぐ山霞たなびく」
「見わたせば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となにおもひけん」
(番外)
「我こそは新島守よ隠岐の海のあらき波風心して吹け」
(後鳥羽上皇が、隠岐島に流された際に詠んだ歌です。百人一首は勅撰和歌集からのみ選んでいるので、この歌は百人一首には入るはずのない歌です。)
確かに定家は、名歌、秀歌だけを選出したのではないことは、上記の歌から、また有名歌人を百首に入れていない場合があることでも想像できます。
百人一首の秘密を探っていくと際限がありません。定家と式子内親王の秘めた恋も内包されているとも言われています。定家の残した秘密の暗号を探りながら、百人一首をもう一度読み直すのも興味深いかも知れません。
(noren Rumiko)
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