
洋装姿で凛々しい顔立ちをしてカメラの前に座る土方歳三の姿は、彼が生きていた当時でも色男と言われ女性に非常に人気がありました。新撰組副長として活躍し、江戸幕府が倒れた後も必死に戦い続けたその姿に「滅びの美学」を感じる日本人は多いようです。土方歳三とはどのような人物だったのか紹介します。
土方歳三とは?
土方歳三は1835年5月31日、現在の東京都日野市に生まれます。10人兄弟の末っ子で、実家は多摩地方でも有数の豪農でしたが父は歳三が生まれる前に亡くなり、母も6歳の頃に他界します。そのため歳三は次男の喜六夫妻によって育てられました。農民の出身でしたが少年時代から武士になることに憧れ、成長すると行商をしながら各地の道場を回って修行を積みます。やがて近藤勇と出会い、1859年に天然理心流に入門します。1863年2月には将軍を警護する浪士組に応募して仲間と共に京都へ向かいました。その後、活躍が認められ新撰組が発足すると様々な権力争いの末に近藤勇が新撰組局長の地位に就きます。歳三は近藤を補佐する副長に就任しました。
京都では尊王攘夷運動が加熱していき、やがて「一橋慶喜や松平容保らを暗殺して孝明天皇を長州へ連れ去ろう」という計画が持ち上がります。それを阻止するべく切り込みに行ったのが1864年の池田屋事件でした。実働部隊は近藤勇や沖田総司ら4人でしたが、歳三は池田屋の周囲を固めて敵兵を近くに寄せ付けず、暗殺計画を阻止する事に成功します。この活躍で新撰組の名が知られるようになり、幕府からも認められるようになります。
新撰組の最後から箱館までの戦い
その後1867年に大政奉還し、王政復古の大号令が発せられると事実上江戸幕府は崩壊し、新政府が樹立されます。しかし旧幕府軍と新政府軍の争いは収まらず、戊辰戦争が勃発します。歳三は旧幕府軍側として新撰組を率いて戦いますが京都での戦いは新政府の前に敗北します。江戸に戻った後は、近藤勇と共に流山で再起のチャンスを窺いますが新政府軍に包囲され、歳三たちを逃すため近藤は投降することを選びました。歳三は江戸で勝海舟らに近藤の命を助けてほしいと頼みますが、願いは叶わず近藤勇は斬首されます。
その後の歳三は旧幕府軍と合流しながら、宇都宮や会津、仙台へと移り戦いを続けます。やがて生き残った新撰組のメンバーや榎本武揚らと共に仙台から箱館へ向かいます。箱館五稜郭に本拠地を置き必死の抵抗を続けましたが、最後は敵の銃弾に倒れて命を落としました。
※大政奉還:江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権返上したこと
土方歳三の人物像
土方歳三は近藤勇の右腕として活躍しましたが、新撰組の中では「鬼の副長」として恐れられていました。歳三は厳しい規律を設け、新撰組内部では常にそれを守らせるようにしています。規律を破った者は、たとえ幹部であろうと切腹を命じ、逃げ出したものは切腹または斬殺後見せしめといった恐ろしい処置が取られます。総長となった山南敬介が「江戸へ行く」と逃げ出した際にも、弟のように可愛がっていた沖田総司に追わせて捕縛させます。京都につれて帰られた山南は切腹を命じられ、その介錯を沖田が務めました。新撰組の内部での死因第一位は切腹によるものと言われています。一見非道な措置にも見えますが、隊としての規律を守るため歳三は心を鬼にしてこれらを実行したと考えられています。
一方で、写真にも残っているように色白で豊かな黒髪、端整な顔立ちもあって女性から非常に人気がありました。女性から受け取ったたくさんの恋文を地元の仲間に送りつけて自慢するほどだったそうです。
土方歳三の愛刀
現在残されている歳三の愛刀は東京都日野市にある土方歳三資料館に保存されている和泉守兼定が有名です。歳三は長さの異なる兼定を複数所持していたと考えられていますが、現存しているものは一本だけで、その他に脇差として堀川国広も使っていたようですがこちらも見つかっていません。歳三が最後まで使っていた兼定にはその戦いの歴史を刻むような刃こぼれが見られたと言われます。土方歳三資料館では毎年命日(1869年6月20日に)合わせて和泉守兼定の刀身を期間限定で展示しています。
(noren Taro)
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