
邪馬台国(やまたいこく)の女王として君臨した女性・卑弥呼(ひみこ)。しかし、歴史上の彼女の活躍を知る事ができる資料は乏しく、いまだに謎多き女王として日本史ファンの心をくすぐります。卑弥呼と邪馬台国の謎について紹介します。
邪馬台国の女王・卑弥呼
弥生時代後期、日本は倭(わ)、もしくは倭国(わこく)と呼ばれ、国内にはいくつかの政治集団(国)が乱立している時代でした。その中で中国の歴史書に名前が残されている国が邪馬台国です。中国が魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三つの国に分かれていた三国時代について書かれた歴史書である『三国志』の中の「魏書」に『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』という当時の日本についての記述があります。日本列島に住む倭人(わじん)の習俗などについて記載されており、その中に邪馬台国に住む倭国の王として書かれていました。倭国では男性の王が国を治めていた時代が70~80年間ほど続いていましたが、内乱が続いたため女性の王を立てたところ国が安定したとあります。その国の王になったのが卑弥呼でした。邪馬台国は力のある国で、30ほどの国をまとめていたと言われています。卑弥呼はこの国を占いや呪いによって治めていました。
卑弥呼の人物像
当時の日本の様子は書物として残されているものが無いため、中国の歴史書を通してしか知る事ができません。そのため、卑弥呼の生涯や邪馬台国についての詳しいことも『魏志倭人伝』の記述を元にするよりありませんが、それによると卑弥呼は国を治める頃には既に高齢で、夫もなく、身の回りの世話は弟がしていたとあります。王になって以降は人々の前に姿を現す事はなく、食事などを持ってくる役割の男子(弟)がひとりいただけだったそうです。卑弥呼が生まれた年については定かではありませんが、死亡した年についてはいくつかの説があり、247年の説と248年の説が有力と考えられています。その根拠として、247年と248年に九州北部で皆既日食が見られ、当時の人々にとって太陽が隠されてしまうことは不吉の予兆であり、それが原因で殺害されたのではないかとも言われています。しかし現在の正確な計算では、日食は見られるものの、皆既日食ではなく部分日食であり、必ずしもそれが卑弥呼の死につながるとは限らないとも見られています。卑弥呼の死後、邪馬台国では再び男性の王が国を統治しますが、内乱が起こり長続きせず、13歳の壱与(いよ)が女王になったことで国がまとまったそうです。しかし、その後の邪馬台国が他国との戦乱によって滅びたのか、また後の時代に続く大和朝廷になったのか、はっきりしたことはわかっていません。
邪馬台国の謎
卑弥呼の謎と共に出てくるのが邪馬台国は一体どこにあったのか、という謎です。現在でも研究家や日本史好きの人によって、邪馬台国の場所は九州説と近畿説が分かれるところで、日本史の中でも大きなミステリーのひとつです。『魏志倭人伝』には倭国の地理についての記載もありますが、出発地点が不明な点や、距離の単位や方角についても様々な捉え方があるため、九州であったり四国であったり、近畿であったりと解釈によって辿り着く場所が異なってしまいます。有名な遺跡や出土品から考えてみると、佐賀県にある吉野ヶ里遺跡では『魏志倭人伝』に記載された宮室や城柵(じょうさく)などが揃っています。しかし、奈良県天理市の黒塚古墳からは三角縁神獣鏡と呼ばれる鏡が33枚も発見されていたり、同じく奈良県桜井市の纏向遺跡(まきむくいせき)の中の箸墓古墳(はしはかこふん)からは3世紀頃の古墳の中では最大級の規模で、卑弥呼が亡くなった際に巨大な塚を作って葬ったことが『魏志倭人伝』にも書かれていることから、この古墳が卑弥呼の墓ではないかと見ている人もいます。
日本史の中でも大きな注目を集め続ける謎の女性卑弥呼。今後、発掘調査や科学調査によって、もしかしたら邪馬台国の場所が明らかになる日が訪れるかもしれません。
(noren Ichiro)
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。