
今からおよそ千年前、平安京には華やかな女流文学が花開きました。藤原氏が代々娘を妃に立て、権力を握るにあたって、娘の教育係として有能な女性を集める必要があったのです。特に有名なのが、一条天皇をめぐるサロンで、清少納言(せいしょうなごん)、紫式部(むらさきしきぶ)、和泉式部(いずみしきぶ)らが活躍しました。藤原道綱の母が書いた『蜻蛉日記』を皮切りに、王朝女流文学は隆盛を迎えます。歌の背景に隠されている藤原家の兄弟同士の争いも頭に入れながら、それぞれの歌を鑑賞してみたいと思います。
教養をひけらかす清少納言とひた隠す紫式部
百人一首62番 清少納言の歌
夜をこめて鶏の空音(そらね)ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ
歌意:まだ夜も明けきらないうちに、鶏の鳴きまねをして、関所の門を開かせようとしても、〔函谷関(かんこくかん)ならいざ知らず〕私と逢うこの逢坂の関だけは決して通しはしませんから。
何のことかさっぱり分からない歌です。仲良しの男友達、藤原行成(ゆきなり)からの手紙、「昨夜はもっとお話しをしたかったのに、鶏の声に催促されて帰ってしまいました。」に対して、中国の「函谷関」の故事をふまえて返歌したものです。行成(三蹟の一人)は清少納言の機知に富んだ返歌をおもしろがり、清少納言も「私ってこんなに中国古典の知識があるのよ。」と得意満面になっている姿が思い浮かびます。
〔「函谷関の故事」とは中国の史記にある『孟嘗君(もうしょうくん)』の話。秦王に捕えられていた孟嘗君は、脱出して函谷関まで逃げた。しかし、関所は鶏が鳴くまで開かない。そこで部下の物まね名人に鶏の鳴き真似をさせ、門を開けさせて無事に関所を通過した。〕
清少納言は一条天皇の中宮・定子(ていし)に仕えており、同じく彰子(しょうし)に仕えている紫式部とはライバル関係にありました。中宮定子は美しくて聡明でユーモアを解される、素晴らしい方でした。清少納言の才気と明るさをこよなく愛され、清少納言も心こめて中宮を賛美しました。『枕草子』にはその楽しい定子のサロンの様子がいきいきと描かれています。頭が良く機転が利き、明るく社交的でお茶目な性格だった清少納言は、中国古典の知識をフルに活用して、宮廷内で知的な応酬を楽しみます。
百人一首57番 紫式部の歌
めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬまに 雲がくれにし夜半の月かな
歌意:せっかく久しぶりに逢えたのに、それが貴女だと分かるかどうかのわずかな間にあわただしく帰ってしまわれた。まるで雲にさっと隠れてしまう夜半の月のように。
久しぶりに逢った幼友達との、束の間の出会いと別れを詠んだ歌です。友との別れの寂しさをさらりと詠んでいます。
『源氏物語』の作者紫式部は、清少納言とは対照的に、目立つことが嫌いな内向的な性格だったと言われています。紫式部は、一条天皇の妃である中宮・彰子に仕えていました。その宮仕え中に書いたのが『紫式部日記』です。この日記の中には、有名な清少納言に対する批判があります。清少納言という人はたいした知識もないくせに得意げに漢詩漢文の知識をひけらかしているというものです。
紫式部は学者の家に生まれ、子供の頃より頭脳明晰で漢籍の教養がありました。深い学識ゆえに、本当は漢詩文が読めるにもかかわらず、わざと読めないふりをするほど知識を隠しました。当時、漢文は男性が読み書きするものとされおり、女性が漢文を読むことは、自分の才能をひけらかすような、はしたないこととされていたのです。頭が良すぎるゆえに教養を隠す紫式部は、開放的な清少納言と対照的です。
宮廷スキャンダルの女王、恋多き女 和泉式部
百人一首56番 和泉式部の歌
あらざらむこの世のほかの想ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな
歌意:私の命はもうすぐ尽きてしまうでしょう。せめて、あの世への大切な思い出として、私の命が尽きる前にもう一度だけ、あなたにお逢いしたいものです。
天才歌人として名高い和泉式部(いずみしきぶ)。男好きのする、魅力的な女性であったらしく、夫と娘がありながら若き貴公子、為尊親王(ためたかしんのう)と烈しい恋に落ちたのを皮切りに、数奇な恋愛遍歴を重ねます。この為尊親王との恋愛事件は当時のビッグニュースだったらしく、夫には離縁され、父にも勘当されてしまいます。しかも愛する為尊親王は二年のちに亡くなってしまいます。
あろうことか、次の恋の相手は為尊親王の弟宮の敦道親王(あつみちしんのう)で、美貌のプリンスと年上の女の、人目もはばからぬ情事は、さらなる宮廷スキャンダルに発展します。しかし、その敦道親王も四年のちには亡くなってしまうのでした。この敦道親王との恋のなりゆきが『和泉式部日記』に描かれており、親王の死をいたむ悲痛な歌がたくさん残されています。
和泉式部の歌はいまもファンが多く、百人一首の代表歌人のひとりと数えられます。
黒髪のみだれも知らずうちふせば まづかきやりし人ぞ恋しき
捨てはてむと思ふさへこそ悲しけれ 君に馴れにし我ぞと思へば
もの思へば沢の蛍もわが身より あくがれいづる魂(たま)かとぞ見る
暗きより暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月
夫に恋する美人妻 右大将道綱の母
百人一首53番 右大将道綱の母の歌
嘆きつつ独り寝(ぬ)る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る
歌意:あなたが来ないのを嘆きながら、一人寝る夜が明けるまでの間がどんなにか長いものであるかをあなたはご存じでしょうか。いいえ、おわかりではないでしょうねえ。
夫の足がしばらく途絶え、やっと訪ねて来たとき、夫が何度も戸を叩いても、作者は開けさせない。本当は夫を待ちわびていたのだけれど、夫の他の愛人に嫉妬するあまり、すねて嫌がらせをしているのです。
『蜻蛉(かげろう)日記』の作者として名高い右大将道綱の母は、本朝三美人の内の一人と言われるほどの美貌だったといいます。しかし美人なだけあってプライドが高く、嫌味な性格が『蜻蛉日記』の中に余すところなく描かれています。夫の兼家(藤原道長の父)は権門の藤原家出身のエリートで野心家、能力にすぐれ出世街道まっしぐら、権力の頂点まで登りつめます。(おまけに美男で、ユーモアもあり、非の打ち所のない程いい男。)兼家には時姫という正室がすでにあり、道長らが生まれていました。作者は一子道綱をもうけたとはいえ、一夫多妻の時代の側室であり弱い立場でした。
結婚生活の苦しみを描いた『蜻蛉日記』が女性の共感を呼ぶのは、作者があまりにも正直に自分の感情をむき出しにしている所です。すねる、恨む、何事も素直に受け取らず、被害妄想の意識が高い。なんて嫌な女と思いつつ、読者は自分の姿を見ているような共感を覚えていきます。右大将道綱の母は、名門の夫より身分が低いというコンプレックスを抱えながら、夫への愛の渇きを赤裸々に綴っていきます。
皆様、どの歌がお好みですか?
(noren Rumiko)
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