
岩崎弥太郎(いわさきやたろう)は動乱の幕末時代を生きる中で持ち前の頭脳と様々な人脈を駆使し、やがて三菱財閥を作り上げることになった人物です。日本では大河ドラマ『龍馬伝』の中で一際存在感を放っていた人物だったため記憶に残っている人も多いかと思います。坂本龍馬との出会いは彼に大きな転機を与える事になりました。幕末の実業家、岩崎弥太郎について紹介します。
岩崎弥太郎の生まれ
岩崎弥太郎は土佐(現在の高知県)の地下浪人(じげろうにん)の家庭の長男として生まれました。土佐藩では武士の身分を上級武士である上士と下級武士の下士に分けており、下士の中でも郷士、用人、徒士、足軽など身分が細かく分かれていました。地下浪人とは、40年以上郷士の身分にあった者が、貧困のため郷士の身分を農民や町人に売って浪人として地域に居ついた人のことを示します。弥太郎の家庭も貧しく、わずかな農地を耕して飢えをしのぎながら生活をしていました。しかし弥太郎は幼い頃から頭脳明晰で、14歳の頃には土佐藩主に漢詩を披露してその才能を認められます。一方で、幼少時は畑を荒らすなど、わんぱくな少年だったとも言われています。
青年期の岩崎弥太郎
弥太郎は21歳になると江戸へ遊学するチャンスを得ます。そこで高名な安積昆斎(あさかこんさい)の塾に入塾しましたが、父親が酒の席で喧嘩をし、投獄されたと聞いてわずか1年で帰郷することになってしまいます。父親の無実を訴えた弥太郎ですが、それにより弥太郎自身も投獄されてしまいます。この時投獄されたことで、同じ房にいた商人から算術や商法を学び、後にこの経験を経た事で弥太郎が商業の道に進むきっかけになったと言われています。出獄すると村を追い出されますが、吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、そこでその後も深く関わりを持つようになる後藤象二郎と出会います。
岩崎弥太郎と坂本龍馬
弥太郎が土佐藩で勤務している頃、坂本龍馬を中心とした「海援隊」が長崎で結成されました。海援隊は現在の株式会社のような組織で、私設海軍や貿易会社として活動していました。海援隊が土佐藩の外郭機関になったため、弥太郎は藩命で経理を担当することになります。この時に弥太郎と坂本龍馬の繋がりができました。弥太郎と龍馬の仲は悪かったと言われていますが、実際には龍馬と酒を飲み、弥太郎が自身の夢や志を語れば龍馬は手を叩いて喜んだとも日記に書かれており、良好な関係であったことがうかがえます。海援隊の船である「いろは丸」と紀州藩船明光丸が衝突・沈没した事故では、その賠償について坂本龍馬と弥太郎、さらに後藤象二郎も交えて紀州藩との厳しい交渉が行われ、最終的には紀州藩が賠償金七万両を支払う事で決着しました。龍馬と弥太郎による地道な根回しによる結果でしたが、賠償金が支払われた八日後に龍馬は京都の近江屋で暗殺されてしまいます。
岩崎弥太郎と三菱財閥
明治維新後、弥太郎は後藤象二郎からの世話もあって大阪で海運業を始め、個人企業の「三菱商会」を設立します。この時に土佐藩藩主山内家の紋と岩崎家の家紋をモチーフにしたスリーダイヤを作りました。現在でも三菱のマークは広く知られています。三菱商会は新政府の軍事輸送を引き受けることにより大きく発展していきます。しかし、海運を独占して利益を上げる三菱に対し、周囲からの風当たりも強くなっていきます。1878年には大久保利通の暗殺、1881年には大隈重信の失脚により、弥太郎は強力なバックアップを失います。弥太郎は1885年2月7日、他社との激しい競争の最中51歳で亡くなりました。
幕末という激しい時代の中で数少ないチャンスを掴み、周囲の信用を得ながら上り詰めた岩崎弥太郎は、三菱商会を設立した時には身分による差別を行わず、士族であっても商人としての教育を厳しく行ったとされています。諦めない粘り強さと多くの人から支持される人柄によって三菱財閥の一時代を築いた努力家だったと言えるでしょう。
(noren Taro)
ざっくり歴史人物シリーズ!『坂本龍馬』
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