
大河ドラマの主人公としても描かれた、鎌倉幕府成立の立役者・源義経。しかし、多くの功績を残したにも関わらず、最終的には兄の頼朝によって追われる運命になってしまいます。悲劇のヒーロー、源義経について紹介します。
義経の幼少時代から頼朝との出会い
源義経は平安時代末期の1159年、源義朝(みなもとのよしとも)の九男として誕生します。父・義朝は義経が生まれてすぐに平清盛と戦った平治の乱(1160年)で破れ、命を失います。義経と2人の兄、そして母の常盤御前は僧になるという条件で命を助けられ、しばらくすると鞍馬寺(くらまでら)に預けられます。しかし、成長するにつれて僧になることを嫌った義経は寺を脱走すると、名前を源義経と改め、1174年から奥州(現在の東北地方)にいた藤原秀衝(ふじわらのひでひら)の元へと駆け込みます。平家の一族も奥州までは手を出すことができなかったため、義経にとって身を隠すのには良い場所でした。その後、1180年に源頼朝が挙兵したことを知ると、義経はわずかな兵を引き連れて頼朝の元へ向かいます。異母兄弟であった頼朝と義経が顔を合わせたのはこれが初めてだったといわれます。1183年には頼朝や義経の従兄弟にあたる源義仲(木曾義仲)が平氏軍を破って京都に入ったものの、京都の治安の悪化や、後白河法皇を幽閉するなどの事件を起こしたため、頼朝は義経に命令して源義仲を追討させます。宇治川の戦い(1184年)で勝利した義経は京都へ入り、敗れた義仲は近江国粟津(現在の滋賀県)で最期を遂げます。
平家との戦い
京都で争っている間にも、逃げ出した平氏の軍勢は着々と力を回復し、その脅威は京都からすぐ近くの神戸の辺りまで迫っていました。義経は頼朝の命令により、平氏を討ちに向かいます。一ノ谷の戦い(1184年)では、馬で降りることは不可能と言われた断崖絶壁を駆け下りて奇襲を行うと思わぬところから現れた敵に平氏軍は混乱し、源氏軍が勝利を収めました。義仲を追討した宇治川の戦いや、平氏軍を大敗させた一ノ谷の戦いにより、一躍、源義経の名が広まります。その後も義経は平氏軍が拠点としていた讃岐(現在の香川県)にある屋島に奇襲をかけて平氏を追討すると、壇ノ浦の戦い(1185年)でついに平家を滅亡にまで追い込みました。
源頼朝との対立
平氏を滅ぼした立役者となった義経ですが、その功績は兄の頼朝に認められることはなく、ついには反逆者として追われる身になってしまいます。これにはいくつか理由があり、平家を討伐する際に、頼朝に使わされていた梶原景時の意見を聞くことなく勝手に行動したことや、頼朝を差し置いて後白河法皇から官位を授かったことなどが挙げられています。頼朝の追っ手が迫る事を知った義経は逃れるために各地を点々としながら、再び奥州にいる藤原秀衝を頼ります。しかし秀衝が病気で亡くなると、義経は後を継いだ藤原泰衝(ふじわらのやすひら)に圧力をかけ、義経を討つように仕向けます。再三に渡る圧力についに屈した泰衝は義経を追い詰めると、1189年に義経は妻と4歳の娘を殺害し、自らも命を絶ちます。享年31歳でした。
現在まで残る義経伝説
源義経は、昔から日本人が好む悲劇のヒーローの代表でした。「判官贔屓(ほうがんびいき)」の「判官」は役職の名前ですが、「判官贔屓」という言葉の「判官」は、九男で判官の職についていた源義経のことを表し、現在でも不遇な運命を背負った人や弱いものに同情したり、応援することを言います。
義経にまつわる伝説で有名なものに、武蔵坊弁慶との出会いがあります。義経の幼い頃の名前が牛若と呼ばれており、牛若丸と弁慶の五条大橋での対決は現在でも語り継がれています。乱暴者の弁慶は、道行く人とケンカを行い、勝つと刀を奪っていきました。その刀の数は999本。あと1本で千本に到達するというときに出会ったのが牛若丸です。笛を吹きながら飄々と現れた牛若丸に弁慶が襲い掛かりますが、それをひらりとかわした牛若丸は欄干の上から弁慶を挑発します。それに乗った弁慶は牛若丸に返り討ちをくらい、敗れると改心して牛若丸の家来として仕えるようになりました。京都の五条大橋の西詰めには、牛若丸と弁慶の像が飾られています。
その他にも源義経が実は生き延びていたなどの伝説も多くありますが、伝承によると、自害した後の義経の首は酒に浸して鎌倉まで送られ、本人であると確認されると藤沢へ葬られて白旗神社(しらはたじんじゃ)で祀(まつ)られたと言われています。
(noren Taro)
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