ざっくり歴史人物シリーズ!『織田信長』


日本における15世紀末から16世紀末にかけては、戦国時代と呼ばれる大きな戦いが各地で行われた時代でした。全国各地で有名な武将が誕生しましたが、織田信長は戦国時代の武将の中でも特に有名で、ゆかりのある観光スポットもたくさん残っています。様々なアイデアを導入し、非常に大きな勢力として成長することが出来ましたが、天下統一まで後一歩というところで暗殺され、他の武将に天下統一を成し遂げられるという最期を遂げることとなりました。

 

尾張の大うつけ

織田信長は1534年に生まれ、幼少期から青年期にかけては、尾張の大うつけと呼ばれていたといわれています。当時の信長は町人と一緒に行動するなどの、武将の息子としては非常に奇行が目立っていたとされており、優秀な人物としての期待は、それほどされていなかったといわれています。ところが父の信秀が死亡すると家督争いに勝利して、自身の国にいる敵対勢力をことごとく破り、最終的には尾張国をほぼ掌握するという優秀な実力を見せ付けることとなりました。

 

天下統一に向けての動き

織田信長が尾張を治めるようになると、次は天下統一を目指してより大きな力をつけるために行動を開始しました。その緒戦ともいえる重要な戦いとされているのが桶狭間の戦いで、当時非常に力があったといわれる今川義元の大軍に対して、小軍勢の奇襲攻撃によって敵の中枢を突く、という非常に大胆な策で攻略したことで、今川の力を大きく削ぎ落とし、今まで無名だったといわれる織田信長の名前と実力を広く知らしめることが出来たといいます。その後は松平家や浅野家などと同盟を結ぶことで領土を拡大していき、有名な天下布武の朱印を用いるようになり、目標である天下統一を目指すために行動を開始しました。

 

本能寺の変での最期

天下統一を目指す織田信長は、その間も様々な戦いに参加し、大きな戦果を挙げていました。それまでの間に徳川家康や豊臣秀吉など、後の日本に大きな影響を与える部下も多く抱えるようになりましたが、その中の一人に明智光秀という男がいました。光秀も非常に優秀な部下として仕えていましたが、織田信長が少ない手勢で本能寺に出向いたとき、急に反旗を翻して本能寺を攻撃、その際織田信長は火に焼かれて死亡したといわれていることから、この事件を本能寺の変と呼び、日本の歴史が大きく変わった事件として知名度が高いです。

『本能寺焼討之図』

 

織田信長と戦い

織田信長を語る上で知っておきたいのが、信長が非常に優れた実力を戦で多く発揮しているという点です。例えば有名な戦いを挙げると、長篠の戦があります。この戦いでは鉄砲を効率よく使えるよう考案された戦法を採用していたとされており、交代制で連続して鉄砲を使うことで、武田の騎馬隊を壊滅させることが出来たといいます。さらに部下の起用も上手く、秀吉などの特殊なアイデアを思いつく人材は積極的に雇い入れるなど、身内の起用については今までになかった方法を積極的に取り入れています。そのほかにも大胆な奇襲で知られる桶狭間の戦いや、周辺の武将による包囲網を乗り越えたりと、様々な戦いが続く生活を送ることになったといいます。

 

織田信長の統治について

織田信長は天下統一こそ果たせませんでしたが、当時の大名は自分の土地を独自の法で治めていたので、自分なりの統治を行っていました。例えば楽市楽座と呼ばれる政策は、当時としては異例の町人から税金を取らないという制度で、多くの方が町人として働くよう担ったことで、尾張国は商業の国として、周辺諸国に負けないほど発展したといいます。さらに交通の要所として全国に設置されていた関所を廃止して、品物の運送をより楽に行えるようにしたことで、さらに商業の街として尾張が発展するようになったきっかけを設けていました。こうした商業ありきで尾張は発展し、その後の江戸時代の文化にも少なからず影響を与えることとなります。

 

外国文化との関係

織田信長の死後から続く、キリスト教弾圧や鎖国など、日本では海外との交易がほとんど行わなかったというイメージがありますが、織田信長の時代では、むしろ積極的に海外の文化を取り入れようと行動していました。織田信長自体も新しいものや珍しいものが好きだったという記録が残っており、当時の宣教師から送られた様々な品々を数多く受け取っていたといいます。そのため当時織田信長が身につけていたとされる鎧兜は、西洋甲冑をイメージした見た目になっており、それに赤いマントを身につけるなど、当時と武将の中でも奇抜な格好をしていたといいます。さらに最近では黒人の家来をそばにおいていたという説まで出ており、織田信長が古い慣習などにとらわれない自由な発想を持っていた人物であったと考えられる理由になっているといわれています。

 

織田信長は天下統一こそ出来ませんでしたが、非常に新しい考えを持っていた人物として高く評価されています。寺を焼き落とすなどの過激な行動も目立ちますが、現在も織田信長についての研究は続けられており、今までになかった人物像や逸話が俗説だったという可能性まで出ており、現在も多くの日本人の心を惹き付けています。

(noren Taro)

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