
百人一首に親しんでいる人に「百人一首ではどの歌が好き?」と聞くと、崇徳院(すとくいん)の「瀬をはやみ」という答えが返ってくることが多く、インターネットの人気ランキングでも崇徳院の歌は好まれているようです。
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」
≪詞花集 恋≫
訳(流れが速いので、岩にせきとめられて二つに分かれた川が、また一つになるように、いつか必ずもう一度、貴女に逢いたいと思います。)
今は別れている二人だけれど、どんな障害をも乗り越えて、必ずこの恋を成就してみせる。祟徳院二十代の頃の作品と言われる、激しい恋の歌です。
「せをはやみ いわにせかるるたきがわの・・・」
と、サ行音の重なりが皮膚感覚に心地よく、爽やかな流動感を感じます。
しかし、この歌の作者の崇徳院は歴史好きの方ならご存知のように、日本の大魔王といわれて恐れられた特異な人物なのです。
崇徳院の悲劇の生涯(1119~1164)
第七十五代天皇。鳥羽天皇第一皇子。母は待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし/たまこ)、鳥羽天皇の第一皇子として誕生しましたが、実は曾祖父である白河法皇が璋子と密通してできた子と言われています。白河法皇は璋子を幼女の頃から寵愛しており、璋子入内(じゅだい)後も関係が続いていたとも言われています。そのため父鳥羽天皇からは「叔父子(おじご)」と呼ばれて忌み嫌われ疎まれており、出生時から悲劇の一生を送る運命を背負っていました。
父鳥羽天皇の譲位を受けて、五歳で即位した崇徳天皇ですが、鳥羽院政の時代に入ると皇位継承をめぐる対立が生じます。鳥羽院の寵姫(ちょうき)、美福門院得子(びふくもんいんとくし/なりこ)の産んだ異母弟、近衛天皇に譲位させられてしまいます。天皇の兄という立場では院政は行えず、崇徳院は急速に力を失います。近衛天皇の死後は自分の皇子の即位を望みますが、同母弟の後白河天皇の即位により望みは絶たれ、保元(ほうげん)の乱を起こすに至ります。しかし戦いに敗れて讃岐に流されることになり、二度と京の地を踏むことなく、憤怒のなか、四十六歳でその人生を終えました。
讃岐の白峰に流された崇徳院は、配流(はいる)先で写経を行い、これを朝廷に納経しようとしますが、呪いが込められているとの疑いを持たれ、朝廷から突き返されてしまいます。崇徳院は怒りと絶望のあまり、「かくなるうえは、日本の大魔縁となって必ずや日本国を呪う」と、自分の舌の先を食いちぎって、滴る血で経典に呪いの言葉を書き記したとあります。それからは髪や爪を伸ばし続け、生きながら天狗の姿となり、壮絶な死を遂げたと伝えられています。大河ドラマなどで、悪鬼の形相で演じられる崇徳院の姿を思い出される方もおられるでしょう。それ以降京都ではさまざまな事件が起こり、崇徳院の祟り(たたり)だとして怖れられたそうです。その後は、菅原道真、平将門と並んで日本三大怨霊と呼ばれるまでになってしまいました。
崇徳院の鎮魂のために何ヵ所かに神社(下記)が建立されています。
・白峰宮(香川県坂出市)
・崇徳天皇御廟(京都市東山区)
・白峯神宮(京都市上京区)
・安井金比羅宮(京都市東山区)
優しく繊細な崇徳院の和歌
幼少期から歌を好んだという崇徳院。その作風は繊細優美、やさしい人柄が伝わってきます。妖怪伝説は本当なのでしょうか。
花は根に鳥は古巣に帰るなり春のとまりを知る人ぞなき
朝夕に花待つころは思ひ寝の夢のうちにぞ咲きはじめける
五月雨に花橘のかをる夜は月すむ秋もさもあらばあれ
もみぢ葉の散りゆく方を尋ぬれば秋も嵐の聲のみぞする
秋深みたそかれ時のふぢばかま匂ふは名のる心ちこそすれ
うたたねは荻吹く風におどろけど長き夢路を覚むる時なき
思ひやれ都はるかに沖つ波立ちへだてたる心ぼそさを
西行の出家の原因は、美貌の妃璋子への叶わぬ恋ゆえなのか?『雨月物語』では、西行が怨霊となった崇徳院と対話する。落語『崇徳院』は、ほほえましい若者の恋患いの物語。
崇徳院にまつわる物語はつきません。
日本の伝統文化体感ゲーム!百人一首『坊主めくり』
(noren Rumiko)
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