
豊臣秀吉は日本で初めて天下統一を果たした人物で、日本で特に有名な戦国武将の一人です。多くの武将が活躍した戦国時代に、農民兵として働いてから様々なアイデアで多くの戦で活躍し、出世を続けて天下統一まで果たしたことから、非常に優秀な人物であったと高く評価されています。
異例の出自
豊臣秀吉が農民として暮らしていた時代は、武士の力が強まり、様々な武将が自身の領地拡大のために様々な戦いを繰り広げていた時代で、一人でも多くの兵を確保するためにも農民の兵も多く有していました。豊臣秀吉の正確な出自についてはまだわかっていないことも多いですが、一般的には侍になるために遠江国に行き、周辺のいくつかの武将の下で働いた後に織田信長の小者として仕えるようになりました。これ以降織田信長の様々な要求に答え、どんどん出世していくこととなり、農民の出としては非常に異例なペースで地位を高めていったといいます。
天下統一までの動き
豊臣秀吉は織田信長に仕えてからは忠実な部下として様々な戦いで手柄を上げ、信長の部下の中でも非常に高い地位に立っていましたが、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討ち取られると、すぐに明智光秀を討ち取り、その後は織田家を実質的に支配するために行動を起こします。その間に対立していた柴田家を討ち取って、残っていた織田家の後継者や実力者を自害に追い込むなどの手段で織田家を完全に支配し、さらに力をつけていきます。その後は天下統一のために他の武将との講和や戦いを続け、徳川家との戦いや講和、後北条家の征伐などを経て、天下統一を果たしました。
天下統一後の統治
日本で始めて天下統一を果たした豊臣秀吉ですが、その後の統治については自身が日本の中心となるような中央集権による統治がなされました。今までその土地の大名が行っていた土地や税の管理を改めて行い、その一環で新たな土地の測量調査を行う太閤検地や、一揆などの反乱行為を防止するための刀狩令などを施行したことで知られています。さらに宗教をきっかけにした反乱などの防止をかねて、キリスト教の信仰を明確に禁止させて、違反したものは処刑するなど厳しい弾圧を行いました。こうした様々な政策は秀吉が生前の間は機能していましたが、秀吉没後は政権を機能できるものが誰もいなくなってしまい、徳川家による江戸幕府の成立へと繋がっていきます。
戦後の朝鮮出兵
天下統一によってひとまず沈静化した国内の戦いですが、その後の秀吉は海外への出兵を行っています。朝鮮王朝の侵略とそれを足がかりにした明への征服を目標に、多くの兵を送り込んだことが有名ですが、この理由についてははっきりわかってはいないといいます。織田信長の構想を引き継ごうと考えたという説もあれば、平和になったせいで部下に渡す土地が無くなり、それを海外に求めたという説も見られますが、詳しいことは不明です。戦いの内容自体は序盤は優勢だったものの、疫病の蔓延や物資の不足などが影響して徐々に戦況が悪化していき、秀吉が死亡してからはすぐに撤退し、その後は海外との接触を制限する鎖国に入ることとなりました。
天下人の死
豊臣秀吉は若いころは稀代の人たらしと呼ばれるほど、多くの人をひきつけるカリスマ性を持っていたといわれており、出自を問わず優秀な人材を迎え入れ、柔軟な発想で優秀な人材を集めるなど、大変優れた人材であるとされていました。しかし天下人になってからの晩年は、そうした人物からはかけ離れた行動を取るようになったとも言われています。無理のある朝鮮出兵や、後の後継者と目されていた豊臣秀次を謀反の疑いがあるとして関係者もろとも処刑するなど、判断力が低下したのではと思われる行動を多くとるようになりました。死に至る直前には後継者として秀頼を置くものの、結局は豊臣家は徳川家によって滅ぼされる結果となり、天下統一は果たしたものの、それを維持するための準備がほとんど出来ないまま、生涯を終えることとなりました。
様々な逸話
豊臣秀吉が大きく注目を集めるようになったのは、織田信長に仕えていた時にあったといわれる様々な逸話も関係しています。例えば織田信長の小者だったころ、信長の草履を懐で温めたことに信長が非常に喜んだという逸話は非常に有名ですし、戦の際も木々にまぎれて周囲からばれないように城を建築し、完成したと同時に周囲の木々を切り倒して、一日で城ができたように見せかけて、相手側の気力を削いだ石垣山一夜城、仕えていた織田信長が亡くなったことを知り、進行中だった軍が織田信長を殺害した明智光秀を討つために200kmにも及ぶ京よりを進軍させて、誰よりも早く明智光秀を討ち取って、その後の頭角を現すための礎にした中国大返しなど、非常に多くの逸話が知られており、小説や舞台など様々な媒体でモチーフにされたといいます。
豊臣秀吉は立身出世の体現者として日本では有名で、戦国時代を代表する武将として今でもその名は知れ渡っています。豊臣政権時に政庁として使われていた大阪城は日本でも有名な観光スポットになっており、毎年大勢の観光客が訪れています。
(noren Taro)
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