
幕末の時代、数々の有名人を輩出した松下村塾(しょうかそんじゅく)で弟子たちを指導していたのが吉田松陰(よしだしょういん)です。情熱的で、時に行き過ぎた行動も起こしてしまう「クレイジーな人」といった一面もみられる松陰ですが、明治維新で活躍した多くの若者を育てた指導者です。
吉田松陰の少年時代
吉田松陰は1830年、長州藩士であった杉百合之助の次男として生まれました。幼くして松陰は兵学を教えていた叔父の吉田大助の元へ養子に出されますが、大助の死に伴い6歳にして吉田家の家督を継ぎます。松陰はもうひとりの叔父であった玉木文之進が開いた松下村塾で兵学を勉強します。厳格な教えを受けた松陰はわずか9歳で長州藩の藩校であった明倫館の兵学師範に就任し、11歳の時には藩主の毛利慶親の前で見事な講義を行い周囲の人々を驚かせました。
ペリーの来航
1853年、ペリーが黒船に乗って浦賀に来航すると、松陰は日本より圧倒的に進んでいた西洋の文明を目前にし、興奮します。師であった佐久間象山の薦めで海外留学を決意しますが、乗り込もうとしたロシアのプチャーチン率いる軍艦がクリミア戦争の勃発により出航を早めてしまったため留学は叶いませんでした。それならば、と松陰は1854年に日米和親条約を結ぶため再び日本を訪れたペリーの船に乗せてもらって一緒にアメリカへ行こうと考えます。松陰と金子重之輔はふたりで漁師が使っていた小船を盗むと、本当にペリーの船に乗り込んで交渉を始めてしまいました。結局条約を結んだばかりの日米の関係を考え渡航の許可は出ず、松陰の願いは叶えられませんでした。その後ふたりは揃って自首し、故郷へ送還されます。一緒に乗り込んだ金子重之輔は投獄先で病死し、松陰はその死をいたく悲しんだと言われています。
松下村塾開校
獄中でも松陰は囚人相手に講義や、読書に励むなど、精力的に活動していました。釈放された後はしばらく自宅に幽閉されますが、藩の許可を得て叔父が開いた松下村塾を引き継ぐことになります。そこで教えた生徒たちの中から多くの有名人が輩出されました。長州藩の運命を背負って幕府と戦った高杉晋作、晋作と並んで松下村塾の双璧と呼ばれた久坂玄瑞(松陰の妹・文と結婚)、初代総理大臣・伊藤博文など幕末から明治の時代を動かしてきた人々です。松陰は武士だけでなく町人や僧侶など身分にこだわらず受け入れ、一方的に教える授業ではなく生徒たちと意見を交わし、時には外に出掛けて登山や水泳も行っていたそうです。
老中暗殺計画から処刑へ
弟子たちに囲まれ、教育者としては充実した日々を送っていたところに1858年、日米修好通商条約が天皇の勅許を待たずして結ばれてしまいます。これに激怒した松陰は老中の間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を計画しますが、弟子たちの反対にあい計画は失敗します。その後松陰は幕府から危険人物とみなされ1859年に江戸に送られ投獄されてしまいます。取り調べで攘夷(じょうい)運動の先鋒となって幕府を批判していた梅田雲兵(うめだうんぴん)との関係を聞かれた松陰は、幕府に自分の意見を聞いてもらえるチャンスと考えたのか間部詮勝の暗殺計画についても語り出し、その結果処刑されることになってしまいました。幕府に抵抗する勢力や思想を持つ人を処刑した「安政の大獄」の最後の犠牲者となり、吉田松陰は30歳でこの世を去りましたが、その後松陰の思想は弟子であった高杉晋作らに引き継がれ、日本は新たな時代を歩んでいきます。
※攘夷運動:日本において、外国人を排斥しようとする活動
吉田松陰の情熱
ペリーの船に乗り込んで行ったり、取調べで幕府に自分の意見を聞いてもらえるかもしれないと暗殺計画を暴露したり、周囲からはとんでもなく無鉄砲に見えた吉田松陰ですが、彼は思ったことを実行しなければならないという強い意思と情熱を持った思想家でした。友人の宮部鼎蔵(みやべていぞう)らと東北に旅行に行く際、出発日までに長州藩からの通行手形が間に合わなかったため脱藩してしまったという話もあります。当時、脱藩は死罪に問われることもあるほど重い罪でしたが、松陰は自分の命よりも友との約束を破るわけには行かないと強引に出かけてしまったのです。その結果、死罪にはなりませんでしたが士籍剥奪・世禄没収の処分を受け浪人となってしまいます。
◼️東京の松陰神社
○住所:東京都世田谷区若林4-35-1
ここはかつて長州藩主の別邸だった場所で、松陰が安政の大獄で刑死した4年後、高杉晋作らの手で墓所が作られ、明治になってから神社が建てられたたものです。松下村塾を模造した建物や、伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、青木周蔵などの名前が刻まれてい266基の燈籠がある。
◼️萩市の松陰神社
○住所:山口県萩市椿東1537
明治23年、松陰の実家の敷地内に、実の兄である杉民治氏が建てたのが元だと言われています。境にはの松下村塾が現存しているほか、旧宅や吉田松陰歴史館があり、萩市では最も尊敬を集める神社となっています。
(noren Ichiro)
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。